ようこそ ○× ソーシャル 「コトノハ」へ!

コトノハは、色々なコト(キーワード)について、みんなで ○× で答えていく、新感覚のコミュニティサービスです。
あなたはまだコトノハにログインしていません。 ぜひコトノハにログインして、○×の世界をお楽しみください。

コトノハのトップページへ   |   新規ユーザ登録はこちらから

コトノハ

定員オーバーではじかれた経験がある。 << prev
next >> 車に轢かれたとしても、ぶつかった瞬間ジ...

果て無き思考の上に、最後に行き着くのは虚無、虚無、虚無

○
×
  • * Googleで検索
  • * ランダム[ r ]

コメント一覧

○
  • 無がどうとか延々言ってる若い僧侶が和尚に鼻をネジられて、「あ痛っ!」「痛いって言ってるお前がここにいるぞ、何が無だ」・・・という小話が好き。

  • 一切の価値観的主観の消滅、それに伴う軽い嘔吐感に似た戸惑い、瑣末な客観の残像に対し均衡を取ることへの煩わしさともどかしさ、そして不快感からの解放を願い死を望む

×
  • その思考過程を本にすれば物好きに売れるんじゃね?しらんけどな

  • 御免、このタイプ俺苦手だわ。 ←じゃ回答すんなよ。 「安易に虚無と言い過ぎなさんな」と云う趣旨のコメントを書けそうなコトに検索を試みたらこのコトが掛かったので足跡。

  • とりあえず寝て、朝起きたらたいていのことは解決している

  • 終わりなき旅。

  • 引っかかりかけて死を考えたことあるけどさorz でもそれって自分という「芯」がどこを向いているか分からんからかなーとか。一本、柱を立てたら虚無感はどっかいった。

  • 結局何も分からなかったんでしょ。人間の頭脳じゃわからないことの方が多いと思ってます。

  • 「果て無き」と「最後に行き着く」は矛盾しています。

  • それを思考の終わりと認めないから対比して「存在して」いるものを認められなくなっていると思われる。

  • 我思う、故に我在り…かなあと。。。

  • だとしても俺さえ楽にはならん。

  • 果て無き思考になぜ最後があるんだ。

  • 意味なきところに意志を刻むことこそが大事なのだと思ってる。だから虚無はただの出発点。逆に言えば、意味を捏造した上に立てた大伽藍など砂上の楼閣だろうとも。

  • 人生における意味や意義といったものは人が無から作り上げて、それを失わないように必死に守っていかなければ失われてしまうようなものなのかもしれない。だから我々にできることは敢えてその苦しみを抱え込むか、虚無感を受け入れるかのいずれかなのだと思う。できれば前者でありたいけれども。

  • 昔、宇宙の果てのことを考えてみたんだけど、果ての向こうに何も無いって状態って却って怖くて、何も無いって何?どんな状態?って混乱しそうになった。だから結論の出ないようなことを悪く考えるのをやめた。宇宙の果ては思考の可能性の広がりだって思うようにしてる。結論としては、最後に思考が行きつくのは考えても仕方がない無の方じゃなく可能性の方ってことです。

  • もとから無い、と、無くなるは違うし。虚無、と、梵我一如な無我の境地は違う。

  • うーーーん、私もzo_bula_bulaさんのコメに近いことを考えました。取り敢えず「むつかしい事を考える抽象脳だなあ」としか

  • 「果て無き」なら行き着くところってないんぢゃないの

  • 結論が求められる問題において陥るのであれば、自分の価値観を正論化するだけの見識が足りていないのでは。

  • そこに行き着く深い思考なら考えすぎは良くない。そして、"生"の為のシンプルで深い思考に戻る。

回答したユーザ
トラックバックURL:  
定員オーバーではじかれた経験がある。 << prev
next >> 車に轢かれたとしても、ぶつかった瞬間ジ...